本日は、テレビの内容分析について、主に調査の方法の観点からお話することになりました。前回「マス・コミ学会」で「テレビ広告に表現された外国人登場人物像」という内容分析の発表をしましたが、今回は「広告以外の番組」の分析の結果について主に具体的な方法の観点からお話します。私が行った調査における「広告以外の番組も含めた方法」についてお話することで、「テレビの内容分析の方法」について話を広げられれば幸いです。
お配りした資料は、修士論文で行った「テレビにおける外国と外国人登場人物に関する内容分析調査」の「方法と概要」、そして「広告以外の番組の調査結果」で、修士論文に添付した資料で一部です。
まず、調査の目的についてです。
この調査は、分析に先だって行なわれた「グループインタビュー」という面接調査で、「海外ニュースの少なさと報道内容にみる偏り、キャスターのコメントにみられる偏見、在日外国人に関する報道のマイナスイメージへの偏り」などが指摘されていたので、それを数量化して検証しておくという目的がありました。
その中でも全体的なテレビへの批判は、まず「海外に関する報道と在住外国人に関する情報が全体的に少ない」ことでした。この問題はテレビの情報提供活動における多様性の問題です。
また、扱い方に偏りがあるとされました。それは第一に、特定地域/特定トピックへの集中と、第二に、テレビが内容を評価する姿勢である。この問題は、情報提供活動における客観報道の原則の問題です。
こうした「テレビの受け手」からみた「テレビの利用と不満足」の意識を把握した上で、テレビがどの程度の「情報提供」を行っているのかという「定量的」観点と、テレビに見られる「姿勢」はいかなるものかという「定性的」観点の二点が、調査の出発点であり仮説としてありました。
さらに1970年代のアメリカにおける「メディアの人種ステレオタイピング」に関する研究を参考に、「人種表現の移り変わり」を考察して、日本においても「外国や外国人登場人物」の描写になにか変化があるだろうと考え、調査を企画しました。
これらの研究の多くは、登場人物の属性を、性別、年令層、エスニシティー、肌の色、職業等によって分類、こういった属性を、暴力行動や消費行動などの行動、ユーモア、悪、などの価値観と結び付ける機能を分析しています。
今あげた調査項目を見ても分かるように、これらの研究は主に「数量化」を内容分析の方法として採用していますが、「定量的」観点と「定性的」観点の二点が含まれています。
今日はこれらの研究を集めた文献リストも持ってきましたので、よろしければ御覧ください。
このように内容分析調査は「定量的」観点と「定性的」観点の二つの方法がありますが、これらの方法は相互に補完しあって成り立っている、という点に留意して、調査を企画しました。
ところで、「テレビ内容分析をする」と言ったときに、いったいどのようなものを対象としてすえていることになるのか、漠然と「テレビを」と言ったときと、それ「広告を/ドラマを/ニュースを......と個別に分析する」と言ったときとは大きな違いが予想できると思います。しかし、一般的によく「テレビっていうものは.......」という話はよく耳にするものです。それは「テレビ」というメディアが持つ形式に、内容の多様さを超えて、なにか特徴的なものがあるからに違いありません。
テレビ番組は、送り手としての文化産業の「労働対象としての社会」への接する仕方を表現したものという考え方があります。例えば、私が今よく読んでいる「アメリカのテレビの人種表現」に関する研究でも、メディア表現の研究が、メディア産業の雇用問題と並べて論じらた上で、「テレビの表現とは.....」といった結論が導かれる場合が少なくありません。ここには、「テレビ表現は送り手の思想や意識の反影」であるという考え方があります。
個々の番組は個別ですが、それぞれの番組を総合して「テレビの持つ意識を把握する」というやり方があるとすれば、それは世論調査でたくさんの質問を行って生活者の全体像を把握するのと似ています。つまり内容分析は「社会調査」の性格を持った部分、つまり「定量的」な性格によって、テレビ全体の像を知ることができる方法だと思われるわけです。
しかし、内容分析を実際に行おうという場合、一つの調査でこのような「全体像」を描きだせるかどうかは疑問です。多くの社会調査が調査対象の選定に注意を払うように、内容分析でも「対象の範囲を定めて調査対象の単位(ユニット)」を選定することには注意を払う必要があります。
一般的に社会調査の対象は「単位の適用時点/集合範囲/属性」によって特定が行われるものですが、内容分析調査で「番組を対象」としてこのことを考慮すると、「いつの放送を対象として/どの程度の放送範囲で/どのような放送内容を」調査するかどうかを考慮することだといえましょう。無尽蔵に流れ続ける放送の調査については、「テレビの全体像」を扱うといっても、こうした対象の特定化のなかで行わなくてはなりません。
こうした特定化は「明確な規定をすること」から調査に科学性を与えることと、基準が異なることで異なった分析枠組みを設計すること必要性、の二点から求められることです。
「時間や放送範囲」は比較的に明確な規定ができますが、「どのような放送内容を」という点はなかなか明確な規定ができるものではありません。一般的な社会調査と異なり「内容分析における対象の単位の属性」は、アフター・コーディングという手法によって規定するものだからです。つまり、この部分は「見てみないと分からない」部分なのです。
ここでは「数量化」という「定量化」の方法をとりながらも、アフター・コーディングという「定性的」な手続きをふまなくてはならないという「内容分析調査の特徴」に着目しておきたいと思います。
今回の調査では、「時間や放送範囲」を「一週間」とか「週末」とかの「社会的な時間」によって決定し、放送範囲は「民間放送のキー局」というように放送局を単位として決定し、「どのような放送内容を」という点に関しては、まず「放映されたもの全て」を対象に、「外国/外国人」表現に限定して行ったものです。
次に調査の方法です。
資料の収集の仕方はさまざまで、すでに放映されたものを組織を通じて収集する方法もありますし、自分でモニターして収集する方法もあります。
例えば、萩原滋の論文では「ビデオリサーチ社」が収集したテレビ広告を用いて分析を行っています。広告などは何度も放映されるので、そういった放送の特性を分析することにはなりませんが、資料としての精度は高くなるかもしれません。こうした資料は、NHKなら2週間ほどの全番組が保存されており、また、広告だけならビデオリサーチや、また全民放の放送内容については一部、電通で常に録画してあり保存してあるものがあるようです。
今回の調査は、多くのアメリカの調査が行うように、「放映」をまるごと録画してモニターするという手法で資料を収集しました。対象の属性に「放映時期」が含まれているので、社会調査のサンプルのように代替のきくものではありません。ですから、資料の精度の観点から、モニターする手法は危険が伴うことが多いと思われます。
具体的には、研究室ではこういった作業ができませんでしたので、資料収集は自宅で行ないました。機材はさほど複雑でもなく、デッキ6台を準備して、アンテナ分配機で一本のアンテナを6分割し、それを増幅して各チャンネルが受信できるようにします。モニターは一台で、収集中は資料のチェック程度に使います。録画したいチャンネル数プラス1台のデッキがあれば、どのような長期間でも全くロスなしに、自宅での資料収集・録画ができます。
今回の調査では一週間分の録画したので、僕の休憩もふくめて50人の協力者に時間を指定して録画をしてもらいました。これで得られなかった資料は全放映時間の1%程度、週末の番組に関しては全数が収集できました。欠損した部分に関してテレビ局に問い合わせても、たいていは相手にしてくれませんでしたので、別のルートが必要なようです。
予算はデッキが6台で12万円ほど、そのほかのケーブル等をふくめても15万円程度、それにビデオテープが200本ほどで4万円程度で済みました。
こうして集めた資料を分析にかけます。
次にコーディングについて説明したいと思います。
内容分析において、原資料となる放送内容(この場合は在京民放を録画したもの)は、多様性を持つ番組構成を持ち、これらを一概に同じ分析を適用するわけにはいきません。
しかし番組の種類といっても、「CMであるのか、ニュースであるのか」といった番組種目分類に加え、その番組が、例えば、「海外劇場映画の放送」なのか、「自国制作のドキュメンタリー」なのかというような、送り手の意図という観点からの番組の属性もあります。また、「受け手」にとって「情報を提供するもの」「娯楽を提供するもの」などのように「利用」の観点からも番組を分類できます。「受け手」にとっては「ドキュメント」も「広告」も情報を得るソースとなっているかもしれないわけで、同じカテゴリーとして分析可能であるかもしれないわけです。
このようにマスコミュニケーションの流れから見ても、内容は「内容として」単独で定義できるようなものではなく、それにたずさわる様々な関係のなかで、レベルの異なる分類があるはずです。
そのなかでも番組種目による分類は、ある程度の事前のコード化が可能であると思われ、様々な目的をもった調査を乗り越えた、標準としての基準になるとは思われます。時系列的な比較調査を行なう場合、番組種目など事前コードできる部分は重要な項目となってきます。しかし、番組種目分類は、客観的に、かつ比較が可能となるような、共通の基盤の整理がなされていないのが現状です。
NHK世論調査部のものやビデオリサーチ社の分類などがありますが、標準として確立されたとは言い難い状況です。
番組種目分類は、時事的な要因の強さ、つまり番組は時折によって変化してゆくものであるという視点も考慮にいれなくてはならないという点が重要な点だと思います。たとえば、CMの分類ではその中にさらに細かい製品サービスによる分類を行ないましたが、当時新発売のPHSやパソコンなど、これまでの広告分類の「精密機器」や「文房具」などを横断するもので、既存の「種目分類」では分析しきれない、といった事態も起きうるわけです。たとえ基礎的な分類でもこのようにアフターコーディングが必要となるわけです。「定量的」ななかに「定性的」な観点が必要な部分の一つです。
時によってこうして内訳が異なると比較できないという事態が起こるわけですが、大枠の分類とより細かい分類と、ある程度の段階をもったコード化がなされていれば、フレキシブルに比較への対応が可能であると思います。
またこの手のアフターコーディングに関しては、社会調査でいう「パイロット・サーベイ」が行われていれば、調査中に次々と新しいコードが生まれてくるということは避けられます。内容分析では「集めた資料を用いてパイロットサーベイ」を行えば、時折の内容の変化にも対応できると思われます。
今回の調査では (付録表1-1)のような大分類と小分類を行って番組種目を分類しました。
さて、こうして分類された番組ごとに、「登場人物や場面」を測定するためのコーディングカテゴリーを作成します。
「登場人物や場面」ということも、「どのような放送内容を」対象とするかという対象選定の一つです。内容分析は、こうした対象選定の樹形図を作り出すことで調査をすすめるという方法であるとも言えます。
ところで、このような「登場人物や場面」を分析するときにこそ、さきほど話した「送り手の意図という観点からの番組の属性」と「受け手の利用という観点からの番組の属性」を考慮する必要が生まれてきます。
その理由は一つに、これまでのように「番組」という抽象的なカテゴリーを言語化するという類型の仕方から、「映像」という「視覚的な素材/現実のモノ/認識できる存在するモノ」を類型する仕方に移ったからです。そして、「受け手」も「送り手」の、その現実に存在するモノに対して、様々な意味の読解のためのコードを適用して、解釈を行うからです。こうしたモノに対してリサーチャーがまた別のコードを用いて類型しようというのですから........
リサーチャーの立場はいくつかあります。例を挙げて説明します。例えばテレビ「東京の夜景」が映されていた場合、一目見て「ああ、東京だ」と分かるような、「送り手」と「受け手」が共通の知識の基盤を持ち合わせているような場合です。2つ目は、「草原」が映されているような場合で、「送り手」が持つ知識がなく「草原」であること以上のことが分からない場合です。3つ目はやはり「草原」が映されていて「送り手」は北海道で撮影したけれども、「受け手」は「ここはモンゴルにちがいない」と思ってしまうような場合。また、「送り手」が「日系人」を用いて一般的な「日本人」を表現したが、「受け手」はそれが「日系人」であることが分かるような場合.....などなどです。
このようにコードとコードが渦巻く場で、リサーチャーが知っていたから「北海道」知らなかったら「草原」というようにコード化すると、結果はたいへんなものになってしまいます。
そこで、テレビが登場人物や場面に対して「積極的に言語的な情報提供」をするような番組と、そうではなく「場面のコンテクストに大きく依存」するような番組の二つに分けて、登場人物や場面を分析する必要が生まれてくる様に思います。
とりあえず「情報提供型番組」と「非情報提供型番組」というように分けて、分析上の注意点をあげてみました。
まずはじめに「情報提供型番組」についてです。
「ニュース番組」がその代表的な番組種目であると言えます。「教育/教養/実用/ワイドショー」などの番組も同様に「情報提供番組」の一つであると考えられます。
ニュース番組の内容構成の仕方には、ある程度は類似した傾向が見られます 。
報道テーマごとに区分されたコーナーがあり、コーナー自体は明確に分離されています。テキスト情報を中心に、映像情報が付加される形式を持ちます。ニュースの場合は、スタジオ内でキャスターがニュースを読み上げ、映像を付加する形が一般的です。ニュースの映像は、言語情報の付加的な役割が強いといえるでしょう。ここで表された映像は、ニュースの背景や情報の一部を、図像的に表象するものであるからです。
こういった番組では「キャスター」などの登場人物が「送り手」を代表し、「キャスター」のセリフを通して「送り手」の意図を明確にし、「受け手」は「キャスター」という具体的に目に見えて言葉を以て説明する「送り手」との合意を形作るわけです。
このように、扱われる内容が、明確に言葉で表現されるために、扱った対象と内容のコード化は比較的容易になります。「外国/外国人表現」の場面に相当するものは、「キャスター」のコメントから容易に理解することができるわけです。
特に提示された場面に関しては容易に「数量化」が可能であるようです。「送り手」が何回、何分「外国」を映像で表現したかを数量化することは、「送り手」の外国の扱いに対する「定量的」な分析が可能となります。
一方、登場人物に関しては数量化の意味は、やや怪しくなってきます。登場人物に関して提示された表現は、特定の明確な役割が、「作られたもの」ではなく、番組の主題も「登場人物のコミュニケーション場面ではない」からです。
こうした情報提供型番組では、「登場人物」を含む「場面」を、一つの「外国」として扱っているわけです。
もしもこうした「外国場面」の登場人物を分析するのであれば、「キャスター」という登場人物が「話したり解説したりする」部分、つまり「ニュース」という、番組の特性となる部分を除外しなければ、すべての「主な」登場人物は「キャスター」で、主な「場面」も「スタジオ」というような結果になってしまいます。
しかし、キャスターの声は映像にボイスオーバーすることも多く、実際にこのように「切り離す」ことは不可能です。ここに「情報提供型番組」の「定量分析」の限界があって、「定性的」な分析を用いる必要が出てきます。
教育とワイドショーも同じ「情報提供型番組」にしています。ここで注意しなくてはならないのは、教育とか娯楽とかいう分け方に対して、実際にテレビで提供される情報が、娯楽的なものなのか、教養的なものなのかという、2つのレベルの分類を混在させないことです。
番組種別分類は放送の機能的な観点からの分類であるのに対して、「番組そのものの構成が「受け手」とどう関わるかという分類が、内容分析の対象によって求められ、分析に適当な方法の選択と結びついてくるわけです。
さらに「定量」か「定性」か、分析方法を選択するには、「料理番組」であるとか「旅行番組」だとか、あるいは「子供番組」だとか、視聴者が日常生活で求める情報で区切られた番組枠組みを超えた、「言語的な情報提供の有無」という観点で、対象を区分しておく必要があると思えます。
次に「非情報提供型番組」について考えてみたいと思います。
「非情報提供型番組」とは、番組種目別分類の大項目である「娯楽」「CM」番組がその傾向の強い番組にあたります。もちろん、クイズ番組のように司会者がいて、「外国」が出てくるというような番組は、「情報提供型番組」であると言えます。
「情報提供型番組」における表現は、表現者から積極的に場面に関する意味づけが行なわれますが、「非情報提供型番組」の表現は、場面の意味付けが番組内容のコンテクストに大きく依存することになる点が特徴であると言えます。
「非情報提供型番組」では、登場人物のコミュニケーション場面が主題となるので、提示された登場人物に関しては容易に「数量化」可能であるようです。「送り手」がどの程度の人数の「外国人」を映像で表現したかを数量化することは、「送り手」の外国人の扱いに対する「定量的」な分析が可能となります。
一方、テレビというメディアはあらゆる「場面」を、技術的に構成するわけですから、ニュースのように一定の形式を持たない「非情報提供型番組」の「場面」は、登場人物の心理描写や、目に見えない「制作者」の意図によってコントロールされています。このような場面は「主題」を分析することができても、数量に還元することはまず無理です。
「非情報提供型番組」の中では、登場人物は人数で把握できたとしても、時間による数量化は、比較の題材にするうえで無意味であるか不可能であると言えます。
例えば、「外国人歌手が登場して歌を歌う」場面で、日本人歌手と比較することは、曲の長さによっても提示時間が異なって、登場人物を中心とした分析ができません。
ドラマや映画に関しては、さらにその傾向が強いといえます。外国映画やコントなどで「外国/外国人」が扱われた場合も、「外国/外国人表現」を「その他の導入や台詞」から切り離すことは到底不可能であると思われます。スポーツも同様で、外国人のプレー場面は、テニスなどの個人競技なら時間で測定することも可能でしょうが、野球など団体競技では、カメラワークに特定の意味づけを見いだすことは可能であっても、時間に換算することはできないわけです。CMは15秒や30秒枠の決まった放送枠をもつので、CM業種ごとの時間は把握できますが、外国人登場場面のみの時間測定は不可能であると思われます。
情報提供自体を目的としていない番組に関しては、全体描写のなかから、外国/外国人を含むコミュニケーション場面を抜き出し、意味あるシークエンスを類型化することが必要であると思われます。いくつの外国/外国人を含む物語が存在するのか、という観点で数量化が可能になるわけです。
そのためには、定性的な分析を用いて物語構造の諸類型を整理しておくことが、数量化に先立って求められると言えます。「物語の構成に加わる莫大な要素を分類すること」である。一方、このような物語要素の諸単位を記述には、メディアで提示された事実の調査記録を行うことが必要となると思われます。
このように「テレビ全体」を扱う内容分析は、定量による単純な集計から、物語要素の定性的な分類、そして再びその数量化といった手順を踏むことで可能となると思われます。
第一の数量化では、物語要素の基礎となるような部分、人口統計学的な要素や地理的な要素に分類することが、まずは求められる。このような項目に関しては、ある程度の事前のコード化が可能で、後の定性的分析を科学的する上での基礎資料となることでしょう。
以上の点を加味して、テレビ全体の外国場面および外国人登場場面の基礎的な数量化のためのコーディングカテゴリーを作成したものが、図1-2です。
さて、このように、場面や登場人物を数量化する場合、大きく放送の時間による把握と、回数による把握が可能であることが分かりました。
次に「外国/外国人登場人物」を分類する際の留意点をあげてみたいと思います。
しかし、身体的外見によって分類するしかないコーディング作業において、登場人物を、国籍や出身地別に把握することは非常に難しいことです。ステレオタイプ化された登場人物像は、説明されないけれども、社会通念として理解されるような情報が、目に見えない形で圧縮されている場合が多いと考えるからです。行為についても同様で、行為自体がステレオタイプ化されていた場合、そのままを文章にしたからといって、行為の構造が把握できない場合があります。
一般的なアフターコーディングの場合、「理解できる範囲」という限定を設けることができます。社会調査で郵送自記式の場合、自由回答であっても、質問という形でコントロールできますし、字が汚くて読めないような場合は「無効」とすることができますが、内容分析ではテレビに質問してもテレビは何も答えてくれませんし、「理解できる範囲」が少なすぎると、それは「少なかった」ことが分かるだけという、寂しい結果に終わってしまいます。
調査対象の種類や期間によっても、アフターコードのための情報は変化します。
ドラマのような物語構造の明確なものなら、明示される情報も多いかもしれませんが、ニュースなどの登場人物は「番組によって定義された役割」を持つものではありません。
CMのようなその場で完結した物語特性を持つものや、今回の調査のような期間限定のデータでは、たとえドラマのような番組でも明確に情報が示される保障はありません。
番組の種類によるだけでなく、登場人物の特性もあります。キャストの「現実」が、番組の提示した情報と異なる特性を持つ場合というものもあります。
同じようことは場面構図にもあてはまります。特定の国名が明記された場面、「外国であること」のみが提示されている場面、映画のように「作品として別途に記号が与えられている場面、それぞれ異なる意味のレベルでのコーディングが必要となるはずです。
視覚的言語などの数量化も「外国の分類」に欠かせない項目ですが、数量化の難しいポイントの一つです。
例えば英語表記を全て外国表現として扱うことは妥当であるとも思えませんし、数量に還元することはできないし、すなわち比較もできないわけです。また、どこまでが日本語化した外国語表現なのかを決定する枠も作らなくてはなりません。
話された言語についても、外国語放送などは総放送時間で把握することができるが、突発的にでてきた台詞が扱いは時間による把握ができません。
とある番組で「主体は誰か、また外在的なものはなにか」という評価的な部分の数量化も多分に行われていますが、これもやっかいなものです。主体が「表現としての少数派民族」だった場合などは、それは「少数派」という言葉の意味から矛盾しているとも考えられます。
総じて言語的な情報が多い場合の分析と、言語的な情報の少ないコミュユニケーション場面におけるシークエンスをいかに確定していくかが問題となるようです。
そして「定量」と「定性」を時折使い分けるだけでなく、「定量」として測定する項目のなかに、このような「定性」の観点を含めていかなくては、「テレビ」という情報の固まりにた対応できなくなるでしょう。
最後に、一つテレビ放映の現場の事例の話で締めてみたいと思います。
1992年のフジテレビのドラマ「フィリッピーナを愛した男たち」は連続ドラマ社会派ドラマを数多く手がける日本人演出家の作品でした。このドラマは市民グループからの批判を寄せられたのですが、「フジテレビの鈴木哲夫担当プロデューサーは、「こうした話にまじめに対応すればするほど、『もめてる』という話に伝わる。じゃあそういう危険のある、差別とか障害者とか、在日外国人などの問題は取り上げないでおこう、ということになりがち」と答えたそうです。
この事例からも理解できるように、テレビは、放送される時点で、放送する側が、制作する側の表現意図、視聴者への影響を解釈し、その合意のもとに作られたものです。
在日韓国・朝鮮人社会の人間模様をコミカルに描いた映画「月はどっちに出ている(1993)」のテレビ放映権の折衝はその合意に関してどう捉えるかが問われた問題でした。この作品は原作、脚本、監督から興行まで、在日韓国・朝鮮の方々が主体でした。朝日新聞社によると、「日本テレビの武井英彦映画部長は「視聴率が取れるか多少疑問がある。もう一つのネックは差別用語。テレビは映画以上に一般大衆に向けたもの。慎重にならざるを得ない」と説明したそうです。フジテレビの堀口寿一映画企画室長も「在日の人たちがみんな納得しているのかわからない」と様子見の段階だ。そのままの放送は難しい、との認識は各局に共通している」 と述べたそうです。
その後、映画は、WOWOW(日本衛星放送)でノーカットで放映されました。放映前には崔監督と映画評論家の品田雄吉氏の対談や、「本編中に一部、人種・民族・職業に関する差別的表現や心身障害者に対する不適切な表現などがありますが、優れた作品性と差別のない社会の実現、人間相互の共感などをテーマとした製作意図を尊重し、オリジナルのまま放送いたします」とのテロップが流されました。
そして、映像をアフター・コーディングするということは、「形式/儀礼/儀式/慣習」といった文化と対峙することが迫られるわけです。
特に「外国」を扱う場合には、翻訳された文化というものをどうとらえるのか、という課題があると思われます。それらは先行文化に対して特殊性を持つのか、またいかなる役割を持つのかを、を考えなくてはならないでしょう。
翻訳された文化を元の対象と同時に認知できるのだろうか。翻訳され尽くさないものとしての「身体」が残っているだろうか....など、コーディング作業とは分析者の「アイデンティティ」を浮きぼりにする作業であるように思われます。
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