Nhat Cat Chieu Nganの Philippines 紀行

1998年3月16日から3月26日まで、フィリピンを旅行してきました。
マニラからパラワンへ。
灼熱の太陽とコバルトブルーの海!珊瑚礁と熱帯魚と一緒に泳いだ。アジアンな街並もよかったです。


Contents

写真をクリックすると本文のその日のエッセイにリンクします。

Mabuhay!! Metro Manila バターンでバッタン マニラ市内観光記 プエルトプリンセサでミサに ホンダベイってどういう意味?
Starlight Feintech; Parawan 白亜の岩と海のエルニド 熱帯魚の友達 Sing Along Phlippines コロンのヤマモト....
さよならフィリピン....


3/16

フィリピン航空でゆく空の旅!
三日前に突然とったチケットでしたが、運良く窓側に。とはいえ、いきなり太平洋に繰り出して景色は空、空、空.....。機内には成田からマニラまでの地図上を飛行機が移動しているデモが写っています。隣の席のおばさんはアメリカはワシントンDCのお隣のメリーランドに住んでいるというフィリピン人。お父さんが病気で倒れたので帰郷なさったそう。メリーランド大学に息子さんが通っているそうです。メリーランドには昨年行ってきたので、ちょっと懐かしかったです。6時間の空の旅も楽しい時間が過ごせました。
近代的なできたばっかりのニノイ・アキノ国際空港に到着。暑いです。このムワっとした空気に触れるのがいいんですねえ!それにしても、なんて美しい空港でしょう。イミグレーションでは、いつもの通り一番後ろ。こういう時にいつも要領が悪いChieu Nganです。税関もバックパッカーとして問題なく通過。本当に軽装で来てしまいました。なにせ何の準備もしてきませんでしたから。
国際空港から市街まではやや遠いということなので、クーポンタクシーで市内に向かうことに。左手に開発中の港を見ながら美しい海岸沿いの道を、大量のジプニーにびっくりしながら、メトロ・マニラ市・エルニタ・マラテ地区へ向かいます。 まずはホテル決め。これといってあてがないので、ガイドブックに載っている「ペンション・ナティヴィダッド」に決めました。一泊550ペソで、トイレ&シャワーは共同、美室で中心街にも近い好ロケーションなペンションです。
メトロ・マニラは騒々しいところと閑静なところの両面のある町でした。東京ほどではないが、大阪ぐらい大きな町だったので、回りきれなかったけれど、パワー漲る露天市場からミニマンハッタンのような所まで一通りは駆け抜けてきました。教会のたくさんある町です。あちこちでミサが開かれ、その横に市場がある、そんな感じです。観光名所をひと回り。まあ「名物うまいものなし」で、心休まりはしますが、さほどのインプレッションは受けませんでした。確かにマニラはそれほど歴史の長い町ではないなとは思えます。名所が工事中だったりして、煮詰まったり.......。
夕方、マニラ湾沿いの公園で一休み。マニラ湾の夕日はそれはそれはきれいなものでした。タンカーが停泊し、真っ赤な陽がくれていくロマンチックな光景です。そんななかで、若者がラジカセを持って集まってきました。始まったのはTRFよろしいフィリピン版ダンス!。しかも曲は日本語ではないですか。しばしマンゴなどを口にいれつつ眺めていました。家族やカップルが暮れ行く夕日と夕焼けを前に涼んでいました。




3/17

ミンドロ島の周辺にルバングという小さな島があります。16日の夜から17日の朝にかけて、このガイドにも載っていない島への行き方を調べてみました。日本のガイドには載っていませんでしたが、ロンリープラネットに少し載っています。フィリピン航空は便を取りやめにしているそう。フェリーは週に一便のみで17日は無理。唯一路線を持つ国内線の小さな航空会社のオフィスに午前中に行ってみましたが、往復4万円のチャーター便のみと言われ、諦めます。
予定を変更して、レンタカーを借りて、マニラ周辺を走ってみました。車好きとしては、あのクレイジーな交通事情のマニラを走ってみたかったのですね。ポンコツのダイウー車に乗って。予想外に簡単ではありましたが、A級ライセンスもとれそうな気分になります。なんといっても、あるようなないような車線のなかをジプニー(ジープを改造した市バスのような存在)はスピンよろしく好き勝手走っているのです。

そのままベトナム難民キャンプのあったバターン州(約3時間)に向かうことにしました。これが結構大変です。なにせ道が分かりません(笑)。ガイドブックの大ざっぱな地図で移動して、さんざんな目にあいました。ロードマップもめったに売っていないですし。ガソリンスタンドでマップを購入して、道を聞いて、ハイウェイにようやく乗ったのは2時半。そこからは快適なドライブです。
ところで、今ではこのベトナム難民キャンプはすでにありません。場所はmolongという場所で、フィリピノ語では「何もない」という意味です。ガイドにも乗っていないような場所で、ロードマップで探し当てました。ともかく、感慨深い名前ですね。周囲の景色は、予想と違い、まるでカリフォルニアのようでした。遠くに赤い山々と平たんな大地。そんな感じです。途中の町ではファーストフードはあるし、ドライブスルーもある。さて、すんでのところで道路はとあるリゾート(オロンガポ)会員専用の路となってしまい、別のルートで山(Mount Samat)を超えて行かなくていけませんでした。まさかフィリピンで峠を攻めることになるとは!予想外の展開に、時間切れ。誰もいない見知らぬ峠は結構不安になりますね。結局、目的地まではたどり着けませんでした。ところで、molongという町というか場所には辿り着いていたのですが、そこはマニラから日帰りで行ける海水浴場だったようです。途中路がやはり無くなり、砂地(海辺の砂だった)を走っていると、なんと信じられないことに大穴があいているではありませんか。ポンコツ・ダイウーはその穴に落ちたまま、座礁.........そして日は暮れました。近くの家まで歩き、HelpMe!!、しかしどうやっても動きません。10人は集まったでしょうか。押せど引けど動かない。そのなかの一人がトラックを持っきてくれまして、ようやく助かりました。夜も更け、いったい僕は何をやっているのだろう状態です。偶然ながら、そのなかの一人のおばちゃんが、ベトナム難民キャンプで市場を開いていたのだそう。ちょっとした聞き取りができました。旅は偶然、ですね。




3/18

マニラ三日目はやはり市内観光を。当初、この日に飛行機で移動するつもりでしたが、残念ながら満席で、次の日の便まで待つことに。午前中は24時間レンタルの車でミニマンハッタンを見物。建設ラッシュで、ちょっと寂しい感じです。その近くには成城の倍程も高級感ただよう住宅街が。市内は弊で囲まれ、入り口にはガードマンが。車だから入れたものの、徒歩だと行き先が決まっていないと入れないのだそうです。すぐ近くは地震の後のような町だというのに。閑静と熱気の街は、別の言い方をすれば貧富の差がとても激しいとも言えますね。都市の規模は大きく、機能別に別れた街づくりがなされていました。それとは矛盾するようですが、急激な資本主義経済の導入のせいか街の顔はどこも同じようで、決して眺めていて楽しい街ではありませんでした。

僕が泊まっていたところは、以前、歓楽街と呼ばれてところです。それらは今は見る陰はありません。まあ、別の場所に移ったわけですが。もちろん、僕はその手の店には近づきませんでした。そういった場所だけでなく、どこにいても日本人であるというと、「デートした?遊んだ?」と聞かれるのです。そんな話をする時の眼差しはイヤミと軽蔑に満たされていて、耐えられるものではありませんでした。旅行中に話したフィリピン人は、ひとり残らず全員が僕にその手の話をしたのです。途中から日焼けして、ほとんどの人は僕のことを「ベトナム人か?マレーシア人か?」と聞いてきたので、別の国の人に成り切っていましたが。

夕方、海岸を歩いていると、カレッサという馬車が声をかけてきました。「ハーイマイフレンド、馬車に乗って写真を撮らないか?ただだから」。鴨ねぎの僕は馬車にのり、写真をとり、いつのまにか馬は出発。マニラ市内観光が始まってしまいました。見たくもない銃の博物館に連れていかれ.........交渉もせずにのった馬車の値段はなんと.........「ただ」だけど、「馬が疲れた」から、だそうです。おっちゃんに飯までおごり........。

夜中にお腹が減ったので、街を歩いていると、どこからともなくドラムの音が。ライブカフェ。入ってみると、バーとライブハウスとディスコがくっついた場所でした。ハコバんがいて、フィリピノポップスを演奏しています。演奏レベルは、まあ、下世話なハコバン。それにしても、僕と数組みの団体以外は、全員が白人のフィリピン人のカップルだったのにはちょっと......。面白いといえば、バンドよりも、その演奏を聞いて踊っている白人の方でした。フィリピン人も大笑いのエンターテイナー揃いで、楽しめました。




3/19

さて、予想外の物価の高さに、この三日で持参金の半分を使ってしまい、一路貧乏旅行へ。飛行機でフィリピン南西にあるパラワン島のプレルト・プリンセサという街に飛びました。パラワン島は縦に細長い島で、その最南端はマレーシアがすぐそばです。南シナ海に面し、フィリピンのなかでも最も未開の大きな島の一つで、珍しい鳥獣のいる閉ざされたジャングルがほとんどを占めている島だそうです。プエルト・プリンセサはそのパラワンの州都で、フィリピンのなかでも2番目に大きな都市だそう。そして、この街も、巨大なベトナム難民キャンプが置かれた街の一つなのです。

ニ番目に大きいとはいえ、一歩路を外れると、誰もすんでいない草原の広がっているような所です。それにしてもここの海産物市場はすごいです。フィリピンの海産物の7割はパラワン海域で捕れるのだそうで、見たこともない魚の数々です。カラフルな魚やエイがそのまま置いてあったり。地元の教会もたいそう美しいものでした。丁度ミサが開かれていたので、参加してきました。

インターネットはここで発見しました。群島国家の悩みでしょうが、有線を施設するのは大変なことだそう。フィリピンは現在、地上波放送や衛星放送やからケーブルでの通信に移行中というメディア政策事情がありますが、パラワンのようにマニラから海を隔てて距離のある場所では、電波事情は極端に悪いそう。土地によって電圧事情も異なるため、パラワンはローカル放送が中心で、別の国であるかのようです。それでも、島内のどんな小さな街に行っても、同じ広告を目にし、大流行のバスケットボール(フィリピンはプロチームがある)のニュースが溢れ、ファッションもバスケットボール選手のようなTシャツに髪型の人がたくさん。マスコミの発達、ひいてはそれが生じさせる西洋化はこういうところでも垣間見られました。

小さなコテージに部屋をとり、そこでブッキングした二日間のツアーに参加することに。島内にはたった3つのホテルしかなく、以外はみんなペンションかコテージでした。この日から、最後までお湯シャワーにはありつけませんでした。まあ、海がお湯のように暖かいですから.......。

この夜はちょっとだけ贅沢をして、「地球の歩き方」に載っていた高級海鮮レストランでフルコース。こういう時だけは、ひとり旅は寂しいですね。

夜は閑散としているので、コテージですぐに寝ましたが、暑さに寝つけず外へ。一泊500円のコテージです、設備はひどいものでしたが、外にあるロビーというか空間は、薄明かりの月に照らされ、適度な風を浴びられる気持ちのよい空間でした。リゾート地なら海が見えるような、そんな空間でした。




3/20

プエルト・プリンセサ二日目は、近郊のホンダ湾というところにある、島巡りツアーです。フィリピン人のガイドさんに「なぜホンダという名前なのか」と聞いたら、「日本人のあなたに聞きたい。ホンダという言葉は、日本語で島がたくさんある意味なのでしょう?」と答えられ、ちょっとびっくり。そんな意味があったでしょうか?そのガイドさんは皆に、「ホンダというのは.....」と説明していたのです。二日間のツアーで一緒だったのは、フィリピン人の4人家族でその娘さんとその従姉妹。マニラに住んでいると言っていたのですが、後々ガイドさんに聞いたところ、アメリカ在住のフィリピン人なのだそう。なんで、そんな風に言ったのだろう?

小さな船着き場から、カヌーの両翼にバーをつけたバンカーボートという船で出発。すぐにコバルトブルーの海が広がりました。そして雲のない突き抜けるような明るい空。椰子の木がポツポツ生えている砂浜でできた島に到着。この島には住人がいて、ちょっとしたお店や海の家があります。そこで着替えて、いざ泳ぎに。気分はすっかりリゾートです。ホンダ湾にはコウモリだらけの島があったり、マングローブの島があったりと、眺めているだけで飽きません。ガイドさんも仕事熱心な楽しい女性でいいツアーでした。しばらくして、無人島へ渡ります。この島は、砂浜もいいですが、珊瑚がとてもきれい。シュノーケリングで熱帯魚と戯れました。最後の島はウソ!のように美しい白砂のある無人島。ところどころにマングローブが生えていて、50メートル近い遠浅のビーチです。僕らの他には誰もいない贅沢なビーチです。日光浴、海、日光浴、海......。現実を忘れますねえ。

夕方、現在も残るベトナム難民キャンプへ。80年代終わりの「キャンプ」という概念は現在はなく、ベト・ビレッジあるいはベト・コミュニティーと名がついています。ここだけは、看板も路を指し示すマークもベトナム語。きれいに区画整理された空間に、フィリピン風のきれいな家並みが連なっていました。庭には花が咲き、犬が走り、夕食の準備の煙りが立ち上っていました。プエルト・プリンセサ中心からバイクで30分。なにもないところに突然ではありますが、そこは確かに街でした。

市場近くで、残り物焼き鳥屋で夕食を。この焼き鳥が凄い。鳥の手がそのまま焼き鳥になっています。形が手のままで、それをガブリ。また、鳥の頭の焼き鳥も。もちろんこれも、一見してすぐに頭だと分かります。それをガブリ。それから、フィリピン風のうどんのお店をはしごして、全部で50円。美味。

ところで、上記の事情からプエルト・プリンセサにはたくさんのベトナム料理店がありました。そのなかの一件のちょっと高級な感じのするお店に入ってビールとおつまみを。そこで、ベトナム人と結婚したというフィリピン人の男性と話すことができました。再び聞き取りを。ここまででお分かりかもしれませんが、今回の旅の目的の一つは、フィリピンでのベトナム難民の生活を、フィリピンの人が身近にどう考えていたのか、聞き取りをしたり、実際に見てみたりすることだったのです。




3/21

プエルト・プリンセサ三日目は、やはり近郊にある、世界一長い地底を流れる地底川めぐりに。この日は前日の4人に、オランダ人の女性が加わりました。ミニバンに乗って3時間の場所だそう。プエルト・プリンセサから20分走ると、そこからは鋪装のない路が続いています。これはすごい状態です。ガタガタガタと揺れ続けるミニバン。話もできない程の大きな音です。車に弱い人なら10分で酔ってしまうでしょう。他の車とスレ違うとものすごい砂煙りです。それにしても、見事な森です。まったく手着かずの森というのは美しいものです。植林の森しか知らない僕には新鮮でした。パラワンのほとんどはこんな森なようです。それでも途中、ところどころに街があり、こんあところに何故というようなバスケットコートがあったりすのですから不思議です。

路がなくなると船に乗り換えて、地底川のある場所へ。地底川に来ているのは、ほとんどが観光にやって来たフィリピンの人たちでした。近くの場所で順番待ち兼食事を。「アキは何でも食う」とからかわれながら、食事。珍しいものほど食べたいものです。ところで、ここには尾長猿がたくさんいて、観光客から飯をせびっています。また、体長1メートル50センチはあるかというほどのイグアナのような爬虫類ミニ恐竜がノソノソと歩いているのです。身近でミルと結構な迫力ですね。

地底川には、カヌーで入っていきました。光と、コウモリの泣き声以外は音の全くない世界にランプ一つで入ります。奇妙な形をした鍾乳の数々。自然の神秘ですね。以前は、この川がどこまで続いているのか分からなかったそうです。ガイドには今でも分からないと書いてありましたが、船の船頭さんいわく、今では発見されたのだそう。ただ、船は入れず、途中は歩かなくてはならいそうです。船は2キロほど進んで引き返しました。この自然の神秘の荘厳さのなか、ガイドさんはディズニーランドの船頭さんのようにギャグ飛ばしまくりで一同、延々大爆笑。笑いもこだまする地底川でした。

ツアーも終わり、仲良くなった家族ともさよなら。ちょっと寂しくなってしまいます。

コテージに帰宅するとともに、すぐにジプニー・ターミナルへ。長距離ジプニーで、パラワン最北端のエルニドへ向かうことにしました。これがたいへんな移動でした。ふつうのジプニーよりもちょっと大型のものですが、形はまったく一緒で窓なし、後ろ開いてる、屋根には人が乗っている......それで悪路を12時間かけて朝までかけてエルニドへ向かったのです。ぎゅうぎゅう詰めで、止まると暑い、走ると寒い、背もたれがない、それに増して、延々とガタガタ音がして、眠れたものではありません。途中の休憩中、空を見上げると、満点の夜空。「ああこんなにも星がたくさんあるのだなあ」と感動。空気の澄んだ電気のない場所の星は、本当に美しいですね。




3/22

服も顔も砂まみれでタイタイという街に到着。髪も汗まみれで暴発しています。そこからエルニドまで、ジプニーを乗り換えて、橋のない川を渡り、天気雨を通過して、さらに悪路を3時間行きます。途中でジプニーが動かなくなったりもしました。タイヤがパンクしました。それでも、どうやって?と思う程にすぐに直り、エルニドへ。乾いた大地から、一変、大理石の絶壁が海に突き出る美しい海の街へ到着しました。この苦労があってこそ、この海という感じです。

日曜なせいかコテージはどこも満席で、泊まる場所探しには苦労しました。が、部屋から湾が眺められる最高の部屋が一つだけ開いているコテージを発見。高い(といっても一泊1000円)ので開いていた模様。ラッキーでした。ちなみにこの街エルニドは電話がないので、電話での予約などは一切できないので、宿泊事情は着てみなくては分りません。エルニドは、離れ小島に高級リゾートがあります。このリゾートは以前は日本資本のリゾートでもあり、チャーター飛行機で来ることも可能で、日本かマニラで予約を入れることができます。が、予算は当にオーバー。せっかくなので、カードを使ってでもそのリゾートに行くのもいいなとは思いましたが、よく考えたら、誰もいない何もない小島で過ごすほうが贅沢かもしれないなあ、と思いやめました。ここも風呂なしシャワーなし。バケツに水がためてあるだけのバスルームが離れにあります。風呂が日常の僕にとって、風呂がないというのは結構疲れるものでした。

さて、昼から、バンカーボートを借りて、さっそく小島にくり出しました。今回はツアーではないので、僕一人と船頭さんだけです。好きな島へ好きな間、行ってられるのです。エルニドはダイビングには最高の場所とあって、信じられないほど広い珊瑚礁が広がっています。透明度は抜群で、はるか海底を肉眼でも見ることができます。そこでシュノーケリングを。いますいます。エンゼルフィッシュ!まるで水族館ではありませんか。巨大なテーブルサンゴがニョッッキニョッキと生えていて、クマミノがイソギンチャクの中で動いてる。赤や黄色の魚や、ウミガメまで!小魚の群れが僕の目の前を通り過ぎてゆく。なんて美しいのでしょう。ガイドに乗っていないようなシュノーケリングポイントを船頭さんに聞き、泳ぎまくってきました。




3/23

エルニド二日目も、朝からボートで島へ。エルニドの島々は砂浜の島ではなく、山々が点々と聳えたっているようなものです。が、島の周囲はたいて砂浜になっていて、それが珊瑚礁に続き、となっています。このような島々はフィリピンではパラワン北部にのみ見られるのだそう。海の桂林とよばれるベトナムのハロン湾とよく似ています。が、位置はより南方なので、その海の美しさといったらありません。

まずは、その奇怪な島と海が作り出したラグーンに。こもれ日のなかで、波のまったくない天然のプールが広がっています。ここだけは波の音もしない恐いほど静かな場所です。干潮時にしか入れないラグーンもありました。そんなラグーンを一人占め。高中正義のブルーラグーンが聞こえます。有名なミニロック・リゾートのある島で、「神々の島」という名前がついています。その後に、同様のサンガルシアン・リゾート(この島は「太陽の島」という名前がついている)へゲストで入ろうとしたところ、強い波にボートが座礁しかかって入れず。結局リゾートとは最後まで縁がありませんでした。しかし、近くの島と島が砂浜で繋がっているという美しいビーチへ。やはり無人島のなにもないビーチの方がいいですね。この砂浜、満潮時には海に沈んでしまいますが、僕が行ったのは丁度、中間頃。左右に海があり、1メートルほどの砂浜が200メートルほど弧を描いています。そこで波に洗われながら過ごす快感といったら!最後にまた別のシュノーケリングポインとへ行って8時間はあっという間でした。

夕方、フィリピン名物のデザート「ハロハロ」を食べました。この「ハロハロ」はパフェの入れ物のそこにたっぷりといろんなフルーツや甘味がココナツが入っていて、かき氷を上からかけ、上にイモでできたアイスクリームを乗せて、上から練乳とココナツミルクをまぜたものをかけるというデザート。「ハロハロ」は「なんでも」という意味だそう。この日に限らず、毎日各地のハロハロを食べていました。マニラでは人工甘味だったハロハロも地方に行くと本物のフルーツがたっぷりで、美味しいですね。火照った体を冷やしてくれる最高のデザートです。エルニドでは毎回同じ店に通ったので、顔を覚えてくれて、通う度に中身が増えていきました。いろいろ出向くのもいいですが、同じ店に通うのもいいものです。夕方になると村中の子供が出てきてそこらで遊んでいてとてもかわいい。人口の半分は子供なんじゃないかと思えるほどたくさんいるんです。

エルニドは夕方5時から夜11時までしか、電気が使えません。夜はシーンとして波の音しかしない。地球と一緒に眠るって感じで、解放感は抜群でした。




3/24

エルニド三日目。そろそろマニラに戻らないといけません。再びジプニーで悪路を通るのはイヤ。といっても18人乗りチャーター飛行機は片道2万円で、無理。じゃあ、船で帰ろうということに。運がよく、次の日には週一便のマニラ行きフェリーがありました。エルニドからバンカーボートで1時間(これも週一便午後一回だけしかない)渡ったところにある港町からフェリーは出発します。そこで、強硬軍で、午前中はやはりシュノーケルに出かけました。帰りの波が強くスピードが出せなかったせいで、コテージから荷をひったくるように持ち出し、走って桟橋へ。ギリギリで港町行きの船に。海に入ったまま水着のままで乗り込みました。

着いた港町は、リミナンコンという港町で、本当になにもない場所でした。フェリーのチケットをさっそく購入。この日の夜は船で一泊して、明朝5時にマニラに向けて出発です。所要24時間。風呂にも入っていないし、最後くらいは贅沢をと思いキャビンの最高クラスのチケットを。3等の3倍の値段を出して、ゆったりと........と思ったのですが、セブ島など行きの船と違い、田舎のフェリーでシャワーはなし。ただ冷房の聴いている4人部屋でした。ところが同室の人がカギを持ってどこかへフラフラ出かけてしまったので、僕はキャビンに荷を置いたまま入れずじまい。合い鍵はないとクルー(たぶんウソだ.....というか、後で知ったが実際は有った)。エコノミーか3等で寝れば?とクルー。

暇なので、街を10往復ぐらいしたような気がします。夜食のマンゴや煙草の購入も準備万端。しかし、同室の者は夜になっても帰ってきません。

暇なので、街のカラオケへ入ってみました。フィリピンではカラオケは「シング・アロング」とか「ビデオケ」とかいう名前で呼ばれています。「カラオケ」と言うと「それは違う。シング・アロングだ」と言われてしまいます。それはどうやら理由がありそうです。マニラで「カラオケ」といった場合に、日本の歌が歌える場所で、女性のコンパニオンがつくという、歌う場所とはちょっと違うものを差すものだからなようです。さておき、このシングアロングの映像兼流れ歌詞はビデオで、店員がリクエストのあった曲を頭出しして.....という仕組み。それがお店いっぱいにエコー最大で響き渡るという、すごい空間です。英語の曲にはカタカナでルビがふってあったり、どこかで見たことのある映像でした。小さな街ですので、誰もが顔見知りなのでしょうか。数人連れの若者が、いくつもあるシングアロングに出たり入ったり、何度も出入りしたりして友人を探していました。さっき見た人が、ビリヤード場にいたかと思うと、今度はディスコに、今度はシングアロングにといった具合です。チャージはありませんから。

12時頃船に戻ると同室の者は帰ってきていましたが、僕のキャビンよりも、一番上のデッキの3等のほうが、風もあって海も見えて、どう考えても気がよさそうです。そこで、貴重品はキャビンに置き、3等の仮ベッドを一つ確保し、船のはじっこで眠ることに。それにしてもこの3等はすごいです。デッキには300人近い人がこうして仮ベットで眠っているのです。3等は乗りたい人は何人でも乗れる定員のないところなんですね。仮ベッドは備え付けベッドがなくなったら使うもののようですが、大半は仮ベッド。それもみんな好きなように好きな方角で寝ているから、壮絶な光景です。少ない明かりに、汗で光る顔とひとみだけがギラギラしている、独特の空気が流れています。それでも、この日は風と波に揺られて心地よい睡眠になりました。




3/25

汽笛で起こされ、船はパラワンを出発。美しい日の出を見ながら、南洋航路へ。キャビンをとりながら、僕はずっとこのデッキで海を見ながら過ごしていました。すぐに右も左もみんな海になります。なにもない海をただ眺めるというのもいいものです。キャビンの同室の者は一日中寝ていたのでつまらなかったですが、デッキではいろんな人とおしゃべりができて楽しいです。久々に日本人と名乗って異文化話に花を咲かせていました。7時間後、船はパラワン北東のコロンという諸島でストップオーバー。2時間の積み荷の上げ下ろしがあります。せっかくなので、ちょっとコロンの村を歩いてきました。家は20件ほどしかなく、本当に小さな村でした。夜食のパンを購入したいのですが、買い物する店って結構、選び辛いものです。店なのかただの家なのか分らないような店が多いのと、旅行者は注目されるから、入りづらいのです。そんな時、子供が店番をやっていると安心して入れます。そこでインスタントコーヒーを購入したのですが、なかから中年の男性が出てきて、日本語で「日本人ですか?」。驚きました。まさかこんな小さな島の村で日本語を聞くとは思いませんでしたから。観光客もこの村の奥にまでは入ってこないそうなのです。彼は一昨年、日本に一年ほど働きに来ていたそう。しかも府中に住んでいるなどというから、ローカルネタで盛り上がり、妙な奇遇もあるものです。「この村には日本語が話せる人がいないから寂しかった。うれしい」と言われ、僕はフィリピンで日本語を話したことがなかったからうれしかった、という感じでした。家や部屋を見せてくれ、「今度来るならうちにとまれば何人でも何日でもいていいよ。友だちとおいで」と。あげく、コーヒはおごってもらうしの大サービスぶりでした。ストップオーバーでなければ、もっと話したかったけれど、出発の時刻。

現在の日本の外国人登録者数のトップは韓国朝鮮籍、ついで中国、ブラジルときて、フィリピン籍の人は第四位で、9万人のフィリピン人が日本で生活しています。フィリピンで出会った人のうちの多くは、友人や親類に一人くらいは日本にいたり、行ったことがあると話していました。フィリピンと日本の距離は、想像以上に近く、そして、その距離から生まれるイメージは強烈な対外意識が潜んでいるように感じます。

その夜、キャビンの食堂で、日本でも有名な高級リゾート地「クラブパラダイス(コロン島の離れ小島がそのままリゾートになった場所・元日本資本有)」のスタッフとビールを飲んでいました。クラブパラダイスの大宣伝を聞いていたわけですが、しだいに酔った彼は、妹が日本に行っていると嘆きはじめました。妹さんは、便利でハイテクな日本から帰りたくないというらしいのです。しかし、彼は「ヤマモトを忘れたのか?」と妹に聞いたというのです。大平洋戦争の話でした。「ジャパニーズと聞くとヤマモトをイメージしてしまう」と主張していました。日本人客の多い高級リゾートで働き、高給取りの彼は、フィリピンの現状をにらみ、ビジネスと割り切っても、矛盾を感じるのだそうです。

彼以外にも、「日本は米軍基地のメンテにどのくらい金を使っているんだ?」とか「ヤクザの収入源はなんだ?」とか、など、答えにつまるような質問を受けたこともありました。答えづらいというのは、解答ができないわけではなく、その質問の背景が身につまされてしまうからです。そんな質問を受ける度、彼等に僕もぶしつけに聞いたものです。「ベトナム難民についてどう思う?」。彼等は一様に「なにはともあれ、地球の下の家族だ。歓迎してきた」と言います。日本もフィリピンから「家族」だと思われる日がいつかくるといいな、と重いながら、その答えを聞いていたものです。




3/26

心地よいデッキは、長旅の人いきれとかかる波、船酔いの汚れで、すごい状態になってきています。鼻にハンカチをあてて眠る人たち。真夜中だけはさすがにキャビンに引きこもりました。船は二時間遅れで、北マニラ港に到着。ジプニーでチャイナタウンへ。朝の8時で店もやていないので、そこからあるいて、市場のある町まで。教会のミサに参加して時間を待ち、トラベラーズチェックの両替えを。てもちの現金はそこを尽きています。ですが、20件ほども銀行をまわってもどこのTCを扱ってくれないのです。たいそうな時間ロスでした。ナションルバンクだけが、TCを両替えしてくれました。最後のドルから空港税を残し、ちょっとした買い物を。始めてのショッピングです。竹細工のカーテンや貝細工の飾りもの、ジプニーのおもちゃや干しマンゴなどのみやげ物を購入しました。フィリピンはこれといって、触手が動く楽器が見当たりませんでした。音楽も同様。フィリピンで一時過ごした友達におみやげの銀のブレスレットを買って、残りのお金でジュースを飲んで.......。

4日も風呂に入っていなかったので、すごい状態。飛行機で隣の人はかわいそうですね。そのままニノイ・アキノ国際空港へ。残ったお金120円。無計画ななかの計画は、いろんな運にも助けられて、たのしい旅行になりました。

番外編

フィリピンは広い国。日本と同じぐらい大きい国。知りたい行きたい場所を僕はしらなかったですし、手がかりといえば「小さな町だった・海の方から山の方へ引っ越しした」のたった二つでした。僕がその話を聞いた頃、フィリピンの知識は何もありませんでしたし、土地の名前は分からないし、聞いたとしても覚えられなかったでしょう。でも人には想像力があります。想像力はきっと本当の偶然を生むのです。僕が最初に行った町は、小さな町で山でした。次に行ったのは、小さな町で海でした。
ある日、旅行の写真を持って行くと、家に帰って、昔の自分の写真を持ってきてくれたことがあありました。その写真には......その少しだけ色あせた写真には.....僕が撮っきた写真に写っている、同じ教会が、同じ船が、同じ港がありました。方角は違えど、時は違えど、順番は違えど、確かに同じ場所に立っていたのです。同じような船に乗り、同じような海で過ごし、同じような道を通っていたのです。
「懐かしさを追い越してゆく」。それこそが想像力のお土産。お土産のブレスレットは、間違って子供用を買ってしまったようで、合わなくて、お笑いに。フィリピンにまた行ってみたい。

E-mail: vietnam@note-to-tone.tv